最期…
天一号作戦で命中弾により火災が発生し、海図も全て焼失。通信装置を失い、ジャイロコンパスも破損した。
この時点で第一罐室が浸水放棄されたが機関部人員に被害はなく、第二罐室による20ノットが発揮可能だった。
さらに操艦不能になった「大和」と衝突しかけたが、後進をかけることで衝突は回避された。
「大和」沈没後14時30分頃から単艦で帰投開始。通信装置は破損しており、作戦中止命令は受信できなかった。
本艦は被弾により艦首が沈下しており、前進すると船体が潜ってしまう状態だった。そこで機関長は「後進強速黒二〇」の紙を機械室や罐室にはりつけた。
9ノットの速力を安定して発揮。
海図もコンパスも失っていながらも、日本本土へ向かった。
14時55分に「右舷至近弾大破火災 目下消火中」と打電したものの、火災が一晩中鎮火しなかった為、アメリカ潜水艦に発見される事を誰もが恐れていたという。
ついに佐世保へ。
帰着が遅く、すでに沈没してしまったと思われていたが、突然の帰還に佐世保海軍工廠はサイレンを鳴らして歓迎した。
しかし、前方への浸水が大で係留中にも浸水が止まらなかったので、大急ぎでタグボートを手配されて18時30分に第七船渠に収容することができたが、排水を待ちきれず第七船渠内で着座してしまった。
『『大破した前方区画のうち、前部弾薬庫は区画内部から防水処置がされたため沈没を免れる。自らの脱出口を絶ってまで気密を保つ作業を行った【3名の乗員】は、後に酸欠死している状態で発見された。』
戦後は損傷のため復員輸送艦としては使用されず、昭和23年4月から5月にかけて旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で解体。
船体は「冬月」、「柳」とともに福岡県北九州市若松区若松港の防波堤として利用された。
現地では軍艦防波堤と呼ばれたが、その後埋められた。
戦争を通じて三度の被害にあったがいずれも生還し、秋月型駆逐艦の中で一番の長命であった。
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